ルビュ言語文化教育296号(2009年7月17日)に掲載された細川英雄氏の「『支援』と『共闘』」http://archive.mag2.com/0000079505/20090718193910000.html について、その反論を298号(2009年7月31日)に掲載していただくが、そこでは紙幅の関係で、論旨の一部を割愛せざるを得なかった。以下に割愛する以前の全文を掲載したい。
私には細川氏と考え方の似ている点も少なくないのだが、個の強さを重視する(ようにみえる)細川氏に比べると、おそらく私のほうが社会的コンテキストをより重視しているのではないかと思う。
2009年7月28日 「支援」か「共闘」か 松下達彦
「支援」については、ルビュ言語文化教育296号(細川英雄氏)と同様の趣旨のことが古川・山田(1996)でも指摘されている。それを読んで以来、私も「支援」という語を避けるか、注意深く使ってきた。「支援」の状態が恒常化することはおかしいという趣旨であった。しかしここでは、「支援」に潜む欺瞞的側面を認めつつ、それでも「支援」という語が必要であることを主張したい。
第一に、数が少ないこと自体が本質的に弱者になる性質を生むことを指摘したい。数の少ないものに対処することはコストがかかる。時間もお金もかかるが、特に認知負荷がかかること(常に例外を含めて考えることは大変)は重要である。経済原理はコミュニケーションにも働く。左利きの苦労を右利きの人に聞いても普通は知らない。私は小学生のころ自転車を持っておらず、そのような子どもは40人程度のクラスに2、3人しかいなかったが、自転車のある友達と一緒に遊ぶのはいつも大変であった。人は誰でもマイノリティになりえる。マジョリティには悪気がなくてもマイノリティが理解できない。常にそれを前提に考えることが必要である。
第二に、自分を安全なところに置かないで、他者と共に闘える人がどれだけいるのか、疑問である。世界には飢餓や貧困で亡くなる人が数千万人はいるのに、私の周りには平気で食べ物を残す人がたくさんいる。自分の生活を脅かしてまで飢餓や貧困のために活動する人を見ることはまれである。困っている人が目の前にいたことは何度もあるが、自らの身を削って助けられることはなかなかない。人のために何かをすることは、まず自分の安全を確保してからであると考えるのは、マズローの欲求の階層などを持ち出すまでもなく、当たり前のことであろう。むしろ自分を安全な範囲のギリギリまで削る、という考え方のほうがいいのではないか。
第三に、マジョリティがコミュニケーションの手段として自分の言葉を選んだ瞬間に、マジョリティとマイノリティの関係ができるのだということを指摘したい。日本で日本語母語話者が日本語を使っている限り、どのようなやり方をしてもマジョリティがマイノリティに対してマジョリティのルールを適用させようとしていることには変わりない。もちろん両者に相互理解の努力が必要だが、結局、通じない場合に困るのは大半の場合は情報弱者のマイノリティであり、マジョリティはあまり困らない。私はいまニュージーランドで言語マイノリティとして暮らしているが、「共に闘う」という表現はまやかしに思える。言語の形式と意味の関係は恣意的で、慣習的に形成されたルールである。コミュニケーションの場で通じる表現を紡ぎだして一時的ピジンを作り出すことができても、一人でマジョリティの言語規則を変えることはできないし、第一言語や母文化の影響などによる認知的な制約もある。だからこそ成人対象の第二言語教師(日本語教師)には高い専門性が要求され、主に第一言語話者を対象とする教師(国語教師)と(共通点も多いが)大きく異なるのもその点である。多数派の規範と圧力はそれほどまでに強力で、マイノリティには闘う力すらない。「共に闘おう」というのは、同じ力を持っているものがいうことである。教室で教師、学習者同士が「共闘」できるとしても、日本語を使おうとしている限り、それは「支援」と大差ない。教室の外に現実にマジョリティの世界があるのである。学習者が社会と折り合いをつけていく力をつける活動は、どんなやりかたをしてもある種の支援(あるいはスキャフォールディング)というほうが正しい。それをやむをえないことと認め、「支援」の含む力関係を意識し、それを回避する方策を探りつつ、なおそれは支援だと意識するのが第二言語教師のプロ意識だと考える。
お互いのことばを学びあうことができればある程度問題は解決する。しかし、現実には不可能である。一人の人が二つ、三つの言語を使えればいいほうだと思うが、世界には数千の言葉がある。日本国内だけでも50以上のことばが使われているらしい。ヨーロッパの複言語主義の考え方が、結果として英語を広めることになっていると聞いたことがあるが、もしそうだとすればそれも結局は経済原理のなせる業である。母語以外に何かを学ぼうと考えた場合に、社会経済的に地位の高い言語が学ばれやすいことは明らかである。この問題を真剣に考えて言語の平等のために実践しているのはエスペランチストだけではないだろうか。お互いがお互いの言葉を横に置いて、第三の言葉で通じ合おうとしているからである。(私にはエスペラントはできないが。)
また、「スキャフォールディング」という語について誤解を解きたい。これはすべてやってあげるということではなく、学習できるようになる条件を整えることであるから、結局「闘う」ことも、それで闘えるようになるならばスキャフォールディングである。スキャフォールディングという語には温情主義的ないかがわしさはない。学習の成立する条件を説明する学術用語である。(それをみなが正しく理解して使っているかどうかは別問題だが。)
第四に、こうあるべきだ、という「べき論」と現実を踏まえた議論の関係も問題にしたい。もし常に理想の世の中ならば、警察も病院もいらない。しかし、現実にはそれはなくならない。マイノリティ問題も同じで、少数にあわせることが認知的に難しい限り、なくならない。マイノリティに関する情報自体が少ないから、マイノリティの理解そのものが難しい。社会が構造やルールを必要とする以上、マイノリティはどうしても例外として処理されるのである。例えば、大学で留学生にとっても矛盾のない履修の一般ルールを作るという簡単なことですら、多くの大学でできていない。
「支援」がカテゴリーの固定化を促す場合には使わないほうがよいかもしれない。マイノリティのエンパワーメントを促すべきであるし、ときには「共闘」もできるだろう。ただ、「支援」と「共闘」のどちらが弱者の状況に理解があるのか、言葉の直接的な含意から考えれば、前者のほうが対象が弱者であることを認めるだけ“まし”かもしれない。「支援」をすべて否定すると、ことの本質を隠蔽することにつながるのではないだろうか。
最後に、マジョリティのとるべき方策について。第一に「非言語」や「わかりやすい言葉遣い」を使うこと、第二に「関係性の非固定化」が大切だと考える。第二の点について、杉原(2003a)は「中国では・・・」といった質問や、日本語の用法に関する説明が、時として自由な発話を阻むカテゴリー化につながることを実証しているが、カテゴリー化自体は否定していない。重要なのは、言語的マイノリティがその他の点でマイノリティだとは限らないということである。杉原は「日本人/外国人」とは別の形のアイデンティティ(例:妻/母親/看護師/料理愛好家)が現れるやり取りをすることで重層的で多様な関係性を生み出せると言っている(杉原2003b)。この指摘は重要である。多様な関係性を生み出せるコミュニケーションをこそ、私たちは目指すべきで、その中で日本語学習支援があっても、それは一方的な力の行使にはならないであろう。そしてそのような思想をもった言語教育を小中学校からの教育現場に反映していく政策的努力も必要であると思う。
引用文献